首里城正殿前回アップした法隆寺。7世紀の末に建立されたという金堂は、押しも押されもせぬ世界最古の木造建造物である。
だが、この金堂も一度焼失の危機に瀕している。
1949年(昭和24)1月26日、壁画の模写作業中に、電気座布団もしくは蛍光灯用の電熱器の過熱により火災が発生したのである。
幸いにもこのときは、戦前から戦争をはさんで続けられていた「昭和の大修理」の最中だった。堂内にあった仏像は場所を移されていて、上層も解体されていたため、必死の消火作業とあいまって被害は最小に食い止められた。
貴重な壁画が大ダメージを受けるなどの被害があったが、皮肉なことにこの火災を機に、戦争でスローダウンしていた「昭和の大修理」に勢いがつき、政府も十分な予算を計上するようになったという。
今われわれが法隆寺の荘厳な姿を拝むことができるのも、この火災が一役買っていると言えるかもしれない。
なお、同じくこの火災をきっかけに「文化財保護法」が制定されたというのも知る人ぞ知るのエピソードではあるが、このとき「文化財保護法」という真新しい法律が忽然と姿を現した、というわけではなかった。
実はわが国における「文化財保護」という発想の萌芽は、1871年(明治4)にさかのぼる。
この当時、明治維新後の排仏毀釈や神仏分離の荒波をかぶり、全国の社寺(とくに寺)は、建物は壊され、仏像などの宝物は売却され海外に流出するなど、荒れ放題だったという。
その状況があまりに悲惨であったため、この年、太政官から「古器旧物保存方」という布告が出され、所蔵する文化財の保全が呼びかけられるとともに、そのリストの提出が求められた。
(ちなみに、寺院も神社も手がける大工を「宮大工」というのは、排仏毀釈のおりに寺の仕事がなくなって以来の慣習だという。江戸時代には「堂宮大工」などと呼ばれていたが、このような事情から堂=寺院の字が外されたのだ)
ただし、「古器旧物」の名の通り、この太政官布告では器や物品だけが対象であり、建物は含まれていない。
以後、1880年(明治13)公布の「古社寺保存金制度」を経て、1897(明治30)に「古社寺保存法」が制定される。
この法律こそが、日本で最初の文化財保護に関する法律であり、また「文化財保護法」の前身でもあった。
しかしこの法律を以てしても、その名の通り対象は古社寺であって、伝統民家はもちろんのこと城郭すらも対象外であった。
今も全国各地に残る城の中にも、いったん旧藩主から民間に売却されたという履歴をもつものが少なくないのもそのためだし、天守閣や櫓、門なども維持のための資金難から、荒れ放題になったり壊されたりしている。
さて、前置きは長くなったが、そういう試練にさらされた城郭の1つに、沖縄県の首里城がある。
日本の他の城とは異なって中国風の外観をもつこの首里城は、琉球王朝の王城として設けられたものだ。
最初に営まれたのはいつのことなのか定かではないが、一説には13世紀末から14世紀にかけてと言われ、今知りうる限りでは1453年、1660年、1719年の少なくとも3度は焼失しているという。
首里城正殿 正面の破風明治維新の時点では1715年に再建されたものが存在していたが、維新後の琉球処分により王朝が廃止されたため、首里城は荒廃の一途をたどった。
古社寺保存法成立後も、その適用外ということでなす術もなく荒れるに任せていたのだが、内務省技師として全国の歴史的建築物の調査にあたっていた関野貞が、
日本で唯一無二の中国風城郭である首里城を何とか保護できないか
という思いに駆られたという。
関野は、当時この道の第一人者であり、平城宮趾を発見、法隆寺非再建論でも名を馳せたという人物であるが、個人の一存で法律を曲げるわけにはいかない。
そこで関野が打った手というのは、首里城の正殿の後ろに「沖縄神社」という神社を設け、首里城正殿はその沖縄の拝殿であるという位置づけにして、古社寺保存法の適用を受けるというものであった。
古社寺保存法は1929年(昭和4)、社寺所有建物以外の建物もその対象とする「国宝保存法」へと発展し、首里城もめでたく国宝に指定されることになるが、それを待つまでもなく荒廃を止め、修復の手を加え始めることができたがゆえに、第二次大戦時の沖縄戦までもちこたえることができた。
不幸にも首里城や付随する史蹟群は、沖縄戦による焼失や破壊、また、戦後、この地に琉球大学が設立されたことなどから、一部を残してほぼ姿を消してしまうことになる。
守礼門しかし、沖縄文化のシンボルとも言える首里城は沖縄の人々の心に生き続ける。
「首里城の復元なくして沖縄の戦後は終わらない」という熱い思いを受け、1958年(昭和33)にまずは守礼門が復元された。
これを皮切りに城郭区域の復元事業が開始され、1970〜1980年代に実施された琉球大学の移転事業の後、首里城正殿の復元にも着手。ついに1992年(平成4)11月に竣工となった。
長らく「不在」であった正殿の復元は困難を極めたというが、戦前に「沖縄神社拝殿」としての修復事業の際に残された資料や写真は、その大きな原動力になったという。
戦前に国宝に指定されたが、沖縄戦で焼失した瑞泉門。1992年に復元
首里城の正門にあたる歓会門。こちらも戦前に国宝に指定されたが沖縄戦で焼失。1974年に沖縄復帰記念事業で復元
園比屋武御嶽石門 首里城跡は、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として世界遺産に登録されているが、あくまでも「跡」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。しかし、歓会門の手前にあるこの園比屋武御嶽石門は、復元されたものではありながら世界遺産に登録されている。非力にもその理由は調べきれなかったが、復元に旧石門に使われていた石が使用されているからではないかと推察する