2010年02月21日

思いのこもった建物とは

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函館公園内にある旧函館市立図書館。
1927(昭和2)年に完成し、その翌年から市民の利用に供された。
質素でもなく、華美でもなく。
いや、奇抜な建築を見慣れた現代人にとっては、はなはだシンプルな建物かもしれない。

しかし、よくよく見れば、切妻の破風にアーチ窓、瓦に円柱と程よく和様を折衷させ、控えめに施した装飾など、今の新しい建物には見られないような上品さを漂わせる。

これが誕生したときは、さぞかし市民を驚かせたに違いない。
建物の見た目もさることながら、図書館という施設の存在自体、まだまだ馴染みが薄かったのではなかろうか。

和洋の価値ある文献を広く市民の利用に供するのみならず、郷土資料や函館ならではの北方資料を根気よく集めて収蔵する。
文明開化の明治から、大正、昭和と時代が移れど、まだまだ鉄筋コンクリートの建物はおろか、そういう機能をもった施設自体、日本に珍しかったことだと思う。
しかもその構想も建設資金も、地元の篤志家によるものだ。

今の言葉で言うところの「ずいぶん金のかかった箱物」とは、まったくの別物。
建物の顔そのものに、「地元の文化を大切し、なおもそのレベルを高らしめん」とする崇高な意志が感じられる。

建築に金をかけない今の時代、贅を尽くした建物に夢を見るのは無理だとしても、せめてもの期待としては、思いのこもった建物に出会いたい。

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2010年01月26日

伝建の改修。文化庁のこだわりと、施主のこだわり

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和歌山県有田郡湯浅町。ここは醤油発祥の地とされている。
現在、業界シェア第2位のヤマサ醤油、第3位のヒゲタ醤油といった関東の醤油会社も、ルーツはこの湯浅だという。

さて、今や醤油は世界に誇る調味料であり、醤油の町というと昔ながらの醸造蔵の建ち並ぶ町並みがイメージされるが、醤油醸造の町で重要伝統的建造物群保存地区(いわゆる伝建地区)に選定されているのは、全国でもこの湯浅1カ所であり、その選定日も2006年12月19日と、意外なことに新しい。

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先日、湯浅の伝建地区を歩いていると、偶然、改修中の物件に出くわし、その当主と話をする機会を得た。

その物件とは、元々、醤油づくりに使う麹の製造販売をしていた商家で、現在は資料館として開放されている。
文化庁のお墨付きの下に行われる改修工事では、木材にしても瓦にしても、オリジナルの材料のうち「使えるものはできる限り使う」という基本路線に沿って行われるわけだが、この物件では屋根に葺かれる本瓦のうち、ほぼ半分はオリジナルの再使用、残る半分は新しい瓦に取り替えられた。

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表側は古瓦、裏側は新しい瓦が使われる

当主の話では、屋根の施工業者は、全部新しい瓦に替えたいと言ったとか。
その理由は、古い瓦を再使用するには土や漆喰をきれいに洗い落とさねばならず、新しい瓦を使うよりもトータルの手間が約3倍になるからだそうだ。
しかし、そのくらいの理由では文化庁はウンと言わず、劣化して使えないものだけを新しい瓦に替えるという結論。
ちなみに、新しい瓦は人目に触れにくい裏側に。通りからよく見える表側の屋根を、オリジナルの瓦で葺き直すことになったという。

これは私の勝手な解釈だが、「どうやら、当主ご自身も全部新しい瓦で葺き替えたかったのではないか」と思わせるような口ぶりだったので、
「しかし、聞く所によると、今の瓦より昔の瓦の方が質が良いという話もありますね」
と水を向けてみたところ、
「いくらこの瓦は大丈夫だといわれても、古い瓦が本当にどこまで大丈夫なのか不安がある」とか。

というのも、この物件の場合、屋根を支える垂木が、雨漏りのため水がしみ、シロアリやられてしまったため全部取り換えるハメになったのだそうだ。

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改修工事が同時進行中の向かい側の家で使われていた古瓦

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2009年12月12日

町並みの妨害者

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古風な町並みに、突如、異物が姿を現す。
そのとき、その異物をどのように解釈するか。

一般的には、町の景観を乱す不届者というレッテルが貼られるのだろう。
今の社会には寛容の精神が欠如しているから。

だけど、明治の赤レンガ建築や石造建築なども、当時の町並みからすると、どうしようもない「異物」だったはずだ。
海外に目を移せば、フランク・ゲーリーのビルバオ・グッゲンハイム美術館なんて、その典型だ。
なのに、称賛の声が否定の声を凌駕している。

要するに、既存の町並みの中でどんな違和感を与えようが、それが素晴らしいもの、お洒落なものだったら構わない。
逆に下品なものだと、古風であろうが現代風であろうが、景観を乱す不届者だ。

かつて京都の町で、京都ホテル(現・京都ホテルオークラ)の建て替えが大問題になった。
クラシックな建物を壊し、新しいビルにするというホテル側の計画が、
「こんな大きな建物を建てられると景観を乱すし、市街地からの東山の眺望も台なしになる」
ということで、それに反対する大きな声が上がったのだった。
京都の仏教界などは、「京都ホテルに宿泊した人間は拝観拒否」なる行動に出るほどだった。
しかしホテル側は、その計画を敢行した。

私には別にどうでもいいことだったが、強い反対を押し切ってまでして建てる建物だから、どんなに凄いものができるのか、ということで強い関心を抱いていた。

だが、でき上がったものを見て、興ざめもいいところだった。
どこにでもある平凡な建物。見る人にこれっぽっちの感動も与えはしない。

もし、これがグッゲンハイムのようだったら、全然市民の見る目も変っただろうし、京都ホテルの勇気にも多大な称賛が寄せられたに違いない。
それを考えると京都仏教界にしても、「いい建物だったら許すが、つまらない建物で景観を害するなんてけしからん」みたいな反対をしていたら、もっと広い共感を得られたろうし、「さすがは…」みたいな感じで、株が上がったのではないかと思う。

今の私の住まいから、その京都ホテルが見える。
決して広いとはいえない京都の市街地の中でも、さほど目立つののではないし、ちょっとノッポかな、という程度で、これだけが突出して景観を害しているとは決して思えない。
これっぽっちで大騒ぎしたのか、というのが実感だ。

※上の写真で丸印がないと、どこが京都ホテルだかわかるだろうか

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今の「良識」に従うと、たぶんこんなのも言語道断というべきか(青森県弘前市)

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2009年07月25日

旧函館区公会堂 箱物批判と名建築

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行政の建てる建物は味気ないという。
そのいちばんの理由は、「こういう建物を造りたいのだ」という気高い理想や熱い情熱が、そこには存在しないからだという。
たとえそのカケラが少しばかりあったとしても、関係部局の意見調整をして、ハンコをもらって回る間に、粉々に砕かれてしまうのだ。
時として政治家も絡んでくる。
船頭多くして船が陸に上がってしまうが如く状況が生まれる。

行政マンでもいい、政治家でもいい。
ある人物が理想を高く掲げ、ほとばしる情熱によって、立派かつ「味気」のある公共建築を建て得たとしよう。
残念ながらそういう場合も、下手をすればマスコミや市民運動家たちから、強烈な「箱物批判」を浴びせられかねないという時代である。

だが、公共施設が立派であるに越したことはないと思うのだ。
美術館には芸術的な雰囲気が、博物館には歴史の重さを感じさせる雰囲気が、学校にはアカデミックな雰囲気がなくてはならない。
要は中身という意見もあるだろうが、何事も環境は大切だ。
たとえば、美しい環境がなければ、美しいものは生まれてこないと思うのだ。

さて、写真は明治43年に建てられた旧函館区公会堂。
ずいぶんと立派な「箱物」である。
総工費は約5万8000円。現在のお金に換算すると、ざっと12億円になるらしい。

こういう建物も、今のご時世なら、矢のような箱物批判を浴びせられるだろうか。

いや、答えはさにあらず。
この建設資金のうち5万円までを、地元の豪商・初代相馬哲平が負担したからだ。
残りの8000円もまた、地元有志の寄付だという。
要するに、公共建築とはいっても、税金とは一切関係のない建物だから、箱物批判を向ける矛先がないわけだ。
自分の選挙や引退後の手柄話のために税金を無駄遣いされた箱物とは、まったく成り立ちが違うのだ。
それになかなか「味気」があるし、西洋建築を学んでまだ日も浅い時期に、よくぞそのデザインや技術を、わが国流に消化したものだとも思う。

しかし、こういう事例も、批判しようと思えばいくらでもできる。

今のお金で10億ほどの寄付をポンと出せるという突出した金持ち経営者がなぜ生まれたのか。
第二次世界大戦後の民主的な感覚で言えば、富みの再分配が適切になされていなかったからと見ることもできる。
おそらく当時の店の丁稚など使用人の報酬は、店主の取り分から比べれば恐ろしいほどに少なかった。
今の法律を適用すれば、最低賃金法違反の罪に問われるに違いない。

もちろん、今の感覚で昔のことをさかのぼって批判するのは、ナンセンスの極みである。
ただ1つ言えるのは、民主主義的な世の中では、なかなか公共の名建築は生まれにくいということだ。

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2009年05月03日

富山県高岡市 海の恵みと歴史の幸運

東京から夜行バスで富山へ。その夜の宿は高岡に取った。
ネットでホテルを調べたら、高岡の方が少しだけ安く泊まれる。
ただそれだけの理由だった。

高岡についてはほとんど知識がなかったので、ついでにこれもネットで調べる。
何と何と、驚くなかれ。
この高岡は、明治22(1889)年4月1日に市制施行。日本で最初に市となった31市の1つだった。

今や裏日本などと呼ばれる日本海側だが、江戸時代から戦前にかけて、繁栄を誇った都市は少なくない。
高岡もどうやらそのうちの1つのようだ。

これもネットの受け売りだが、JR高岡駅から徒歩で行ける範囲内に、歴史的な町並みが2つある。
少しは期待が膨らむが、膨らませ過ぎは禁物だ。
行ってみてガッカリ、という歴史の町並みも珍しくないから。

まずは2つあるうちの1つ、「土蔵造りの町並み」とやらへ足を延ばす。
果たしてその実体は、というと写真の通り。

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いくら何でも、これほども豪壮な商家が軒を並べているとは、予想だにしなかった。
あえて期待に歯止めをかけていなかったとしても、たぶん圧倒されたに違いない。
この町は、どうもただ者ではなさそうだ。

さて、高岡の町が開かれたのは、今から400年前、加賀藩二代藩主・前田利長によって。
城が築かれ、武家屋敷の並ぶ城下町も形成されたが、江戸幕府による一国一城令によって、10年も経たないうちに、あえなく廃城に追い込まれる。
それとともに町は衰退の方向へ向かうが、加賀藩三代藩主・前田利常は、利長の築いた高岡の町の没落を憂い、商工業の町としての発展をはかった。

以後の高岡は、藩の米蔵が置かれたことから加賀米の流通拠点として、また、すぐれた銅器や漆器を産する工芸の町として、希有の繁栄を謳歌する。
さらに幕末から明治にかけては、近くの伏木港を介して、日本海海運の一大拠点としても躍進を遂げた。
なお、市内にあるもう1つの歴史的町並みである「千本格子の家並み」は、江戸初期から鋳物(銅器)作りで栄えた町である。

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ところで、昔の日本の大金持ちといえば、豪農に山林王、織元に窯元、工芸師、呉服商に両替商、そして諸国物産を扱う回船問屋といったところ。
このうち、豪農や山林王などの第一次産業系は、生まれ落ちた家次第。誰もがこの世界で富を得られるわけではない。
一方で、それ以外の第二次・第三次産業系は、比較的多くの人に、富の獲得競争へ参加する道が開かれている。中でも第三次産業系は、なおさらだ。
実際に、高岡・土蔵造りの町並みでも、ひときわ豪壮な菅野家は、幕末に行商人から出発し、巨万の富を築いたという。

また、高岡の繁栄を語る上で忘れてならないのは、武家の町から商工の町へと、時の為政者である徳川家から、いち早く転換を迫られたということだ。
もし、武家の町のままであったら、明治維新、すなわち徳川家が大政を奉還するとともに、衰退の憂き目を免れなかったと思われるから皮肉なものだ。

土蔵造りや千本格子の家々もさることながら、高岡の市街地をザーッと歩いて、銅御殿(あかがねごてん)とは言わないまでも、かつて目の飛び出るほど高価だった銅板を外装材として使用した家が、ことのほか多いことにも驚かされた。

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2008年12月17日

喜劇か悲劇か。再利用前、再利用後

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たいへん失礼な言い方ではあるが、昼間に見たときは廃屋ではないか、と思っていた建物に、夜、明かりが灯っている、ということがしばしばある。
何事も見かけで安易に決めつけてはいけないわけだが、やはり、どう見ても廃屋、みたいな建物もある。

上の写真は、北海道の函館で、今年の9月28日に撮ったものだが、これはそういった建物の一例である。
これだけアジサイが茂っていたら、玄関に出入りするのもたいへんなはず、というのが、私がこれを廃屋だと思った理由(北海道でアジサイの季節は、かなり遅れてやってくるようだ)。

ただ、非常に無責任ではあるが、この建物にえも言えぬ風情を感じたものだ。

で、それから2カ月半経った12月10日、同じ建物を撮ったのが下の写真。

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こうやって店に生まれ変わっているところを見ると、やはり廃屋だったのかもしれない。
ただ、今もこの建物に風情を感じるか、と言うと、答えはノー。

しかし、この建物と何の縁もないよそ者の私にとやかく言う権利などあるはずもない。

とにかく、改装して使い継がれることになったのだから、この建物としては幸せなことであるはずだ。
第三者に言えることといえば、ただそれだけ。
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2008年12月07日

建仁寺 わが国禅宗の聖地で、禅寺の歴史を顧みる

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三門 山門は禅宗寺院の正門。山門の字を当てられることも多いが、本来は迷いから解放されたい者が通らなければならない3つの門の意味の三解脱門に由来し、そのため3つの通路をもつものが三門である

南宋に留学して禅を学び、日本に初めて禅の教えを伝えたという栄西。
その栄西が開いた建仁寺は、一般に「日本最古の禅寺」として通っている。

建仁寺があるのは京都の中でも一等地。
京都に数ある禅宗の大伽藍の中でも、これほども市街地に近いものは他にない。

たとえば、京都一の繁華街・四条河原町、夏には納涼の川床が並ぶ鴨川べり、お茶屋やスナックが所狭しと並ぶ祇園、そのいずれからも徒歩10分の圏内だ。
観光客であれ市民であれ、ショッピングの途中、ちょっと時間をつくって足を運べば、三門、法堂、浴室、庫裏など禅寺ならではの様式(禅宗様)を備えた伽藍を見物できる。
しかも広い境内は閑寂としていて、繁華街のすぐ側であることをたぶん忘れるに違いない。
おお、何という贅沢なことか。

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山門の垂木 軒裏の垂木(均等な間隔で密に並んだ角材)に注目。禅宗様では、上層の屋根の垂木は扇垂木(放射状に配列される)、下層の屋根の垂木は並行垂木(等間隔で、すべての垂木が軒のラインに垂直)となるケースが多い(例外もある)

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法堂 禅宗の七堂伽藍(山門、仏殿、法堂、浴室、東司、僧堂、庫裏)のうちの仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(講堂にあたる)を兼ねたものが、建仁寺では法堂と呼ばれる

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山門越しに見た法堂

c00195kenninji.jpg 組物

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法堂の組物 組物を柱の上だけでなく、柱と柱の間にも用いるのが禅宗様の特色で、詰組と呼ばれる。そのため禅宗様では、組物がまるで層をなすようにズラリと密に並んでいる

ただ、1つ断っておくと、この建仁寺の伽藍が今も「日本最古」の姿をとどめているわけではない。
応仁の乱をはじめ度重なる戦火を受けているために、そのほとんどは桃山時代以降の移築か再建によるものだ。

ついでにもう1つ断っておくと、「日本最古の禅寺」という通説も、厳密には正しいとは言えない。
ちなみに、建仁寺の公式ウェブサイトでは「京都最古の禅寺」、臨済宗黄檗宗連合各派合議所の主宰する臨済禅黄檗禅公式サイトでは「日本最古の禅宗本山寺院」と表記されている。
わが国禅宗のフロンティアが開山であるから、「日本最古の禅寺」という一般説はきわめて通りのよい話ではあるが、「最古」という語の解釈には非常に微妙な部分があるのである。

ともあれこの件に関して、いちばんハッキリするのは、栄西の足跡をたどること。

南宋での留学から帰った栄西は、実はまず、1195年(建久6)九州博多に聖福寺を開いたのであった。
ここでたちまち「日本最古説」は崩れ去る。
さらに栄西は、1200年(正治2)、鎌倉に寿福寺を開く。
となれば建仁寺は、少なくとも日本で3番目以降の禅寺ということになる。

実際に栄西が建仁寺を開いたのは、これらに遅れる1202年(建仁2)のことである。
しかも、このときの建仁寺は、臨済禅だけでなく天台、密教の道場も兼ねた三宗兼学の場であり、純粋な禅宗寺院ではなかったのだ。

だがここで、「何だ、日本最古でもなければ、純粋な禅寺でもなかったのか」と言ってしまうと身も蓋もないし、どこが最古か、などと単純に判断できるほど、世の中というものは単純ではない。

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庫裏 天龍寺と同様、庫裏の屋根には煙出しの櫓がある

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浴室 禅宗では入浴や用便も大切な修行

そもそも栄西の本意としては、最初から京都に禅宗専門の寺院を開きたかったに違いない。
何事も日本を制するには京都を制しなくてはならないという時代。しかも仏教においてはなおさらだった。
しかし、それを許さなかったのは当時の日本の勢力地図。
宗教的に政治的にも比叡山延暦寺の勢力がきわめて強かったがために、真っ向から天台宗を無視したような寺院を建てると、迫害を受けることは必定だった。
はるばる南宋で禅の真髄を知り、伝道の熱い思いとともに帰国した栄西が、博多、鎌倉と回り道をしたのもそのためだったと見て間違いはなかろう。

かくなる事情で、念願の京都に開いた建仁寺でさえ三宗兼学としたわけだが、それでもなお、風当たりは強かった。
禅僧の着る袈裟は他宗派の袈裟より大きかったらしいが、そういう瑣末なことですら、「何を、生意気な」と激しい非難の的となった。
「大袈裟」という言葉はこれに由来するという説もある。

建仁寺が禅宗の単独道場となるのは、創建から半世紀以上、栄西の没後44年を経た正元元年(1259年)のこと。
なお、それよりも早い1253年(建長5)、鎌倉で日本最初の禅宗専門の寺院として建長寺が創建されている。
建長寺は、鎌倉幕府5代執権として権力を握り、禅宗に深く帰依した北条時頼が宋からの渡来僧・蘭渓道隆を招いて開いたもので、建仁寺が純粋な禅寺となったのも、時の権力者の信頼を背負った蘭渓道隆がその後、建仁寺第11世として入寺したことによる。
このころになり、ようやく武家政権が定着し、禅宗の時代が訪れたのだ。

「日本最古の禅寺」と通称される建仁寺。
史実として、それは必ずしも正確とはいえないが、わが国禅宗の創始者である栄西の心の中では、紛れもなく日本最古の禅寺であったに違いない。

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栄西茶徳顕彰碑 わが国禅宗の創始者であり建仁寺の開山である栄西は、日本に茶をもたらした人物でもある。手前にはお茶の花も見える
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2008年12月02日

天龍寺 貿易の益で建てられた寺

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静岡県のある禅寺の東司(トイレ)には、グッチのオーデコロンが置かれている。
住職曰く。いわゆるトイレの芳香剤だと、逆にこれぞトイレの匂い、と言わんばかりの印象を与えるから、それを避けたかったというのがその理由。

さすが在家の盲点を突いたような鋭くもごもっともな話であるが、お寺にグッチという取り合わせは、違和感がしないわけでもない。

しかし実際のところは、むしろ違和感を覚える方がおかしいのかもしれない。
なぜなら元来お寺なんていうところは、海外の文物の受入窓口のような存在だった。
そもそも、お寺、そして仏教自体が、蒸気船も飛行機もなかった昔に、はるか海の向こうからからもたらされたもの。要するに根っからのハイカラさんなのである。

さて、お寺とハクライ品という取り合わせ。
その極め付けは、寺社造営料唐船というやつだ。
読んで字のごとく、寺院や神社を造営する費用をつくるために運航された貿易船のこと。
つまりは、お寺の成り立ち自体、舶来品に依存しているケースもあるというわけだ。

これにしたって何ら驚くことはない。
室町幕府が天龍寺の造営費用を得るため、天龍寺船という貿易船を元(中国)に派遣したという史実については、日本国民なら義務教育の期間中に社会科の授業で必ず習っているはずだ。
ちなみに寺社造営料唐船はこのときが初めてではなく、すでに鎌倉時代から、東福寺や建長寺ほかの造営のためにいく度か運航されている。

今日のお題はその天龍寺。
残念ながら創建以後、何度も火災に遭遇しているため、貿易のアガリで建てられた伽藍を見ることはできない。
しかも、その大半は明治時代以降の再建だ。

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天龍寺大方丈

とはいえ、広い境内に立ち並ぶ庫裏、大方丈、書院ほか、いずれも堂々たる建物であり、禅宗寺院の雰囲気を満喫できるに違いない
なお、拝観料は諸堂と庭園を含めて大人600円(庭園だけなら500円)。
見学できる範囲は広く、庭園の拝観コースは小高い丘(望京の丘)にも通じていて伽藍が一望できたりするから、かなりコストパフォーマンスは高いと感じる。

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天龍寺の開祖・夢窓疎石作の庭園。この庭園が唯一、往時の雰囲気を伝えていると言う

まあ建築史学的に言えば、オリジナルが残っている寺や、再建でも古い時代の再建の方が見ごたえがあると思う人もいるのだろうけど、禅宗建築のイロハを知るには、この天龍寺でもある程度事が足りるのではないかと思う。そしてその中でも、いちばん禅宗建築の特徴がわかりやすいものといえば庫裏かもしれない。

庫裏と言えば、禅宗だけでなく他宗派の寺院にもあり、住職やその家族の住居を指すのが一般的だが、元々は禅宗寺院における寺務所兼台所のことだったという。

そういう性格の建物であるから、寺の伽藍の中でも、いちばん世俗的な建物と言える。
ともあれ、台所であるから煮炊きをするわけで、煮炊きをするから煙の出口がいるわけで、禅宗寺院の庫裏には、屋根の上に煙出しの櫓が付いている。

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天龍寺庫裏の屋根にある煙出しの櫓

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書院側から見た煙出しの櫓

さらにもう1つの特徴を挙げると、寺院の建物には入母屋や寄棟の屋根をもつものが多いが、庫裏の屋根は切妻であり、妻の側が正面を向き、そこに入口が付いている。
なお、妻とは、切妻屋根において、瓦などの屋根葺材が見える側ではなく、上が三角になった五角形の壁面が見える側のこと。
妻が正面を向き、そこに入口のある建物は「妻入」と呼ばれる。

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庫裏の正面、入口のある妻側の壁

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この窓は、その形状から花頭窓と呼ばれる。これも元はと言えば禅宗の寺院建築の特色だった

つまり、禅宗の寺に行き数々の建物を見たとき、どれが方丈で、どれが書院で、なんてことがわからなくても、屋根の上に櫓の付いた妻入の建物があれば、これは庫裏である、と断定して差し支えがないということだ。

誤解を避けるため付記しておくと、禅宗以外の宗派でもこれと同じ形式の庫裏をもつ寺は少なくない。

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望京の丘から見下ろす天龍寺伽藍。遠くからでも庫裏の屋根にある煙出しの櫓が目を引く
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2008年11月24日

獅子口の小研究

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建仁寺・方丈、門の唐破風に載る獅子口

所用で六波羅蜜寺を訪ねる道中、建仁寺の境内を抜けたのだが、ほんの少しだけ驚いた。

広大な境内には数々の堂宇が立ち並んでいるが、本坊や浴室(禅宗では入浴も大切な修行の1つ)を除くほとんどの屋根には、鬼瓦ではなく獅子口(ししぐち)が載っているのである。

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【参考】獅子口(左)と鬼瓦(右)。据えられる場所は同じだが、形状はまったく非なるもの

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建仁寺・本坊(庫裏)屋根の鬼瓦。鬼面の上に突き出ている円筒状のものは鳥衾と呼ばれる

一般に、社寺の屋根の棟の端には鬼瓦が据えられているが、厳密に言うと、鬼瓦と総称される中にも、鬼の顔がどこにも見当たらない「鬼瓦」が存在し、その代表的なものが獅子口だ。

鬼瓦を据える理由としては、悪霊が寄り憑くのを避ける「厄除け」と、棟の端から雨が浸入することを避ける「雨仕舞い」を兼ねているというのが通説である。
だからそこに鬼の顔がなければ「厄除け」の役を果たさないのではないか、と思うのだが、寺社の屋根をよく見ると、軒の端に正真正銘の「鬼」ではなく、獅子口の載っているケースはかなり多く、ここ建仁寺でも多くの獅子口を目にしたことから、

いったい獅子口とは何なのか
鬼瓦とはどういう使い分けがなされているのだろうか

という疑問が頭をもたげたのだった。

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建仁寺・法堂 すべての棟に獅子口が載る

これまでも、獅子口の謎を解くために、本をあたったことがあるが、たとえば

「五角形をした箱形の上に三〜五個の軒丸瓦をのせたもので、これを経の巻という。そして表面に山形をつけた平行線をつける。これを綾筋(しめ筋ともいう)と名付けている。獅子口の起源については、よくわかっていないが……」(前久夫著『寺社建築の歴史図典』東京美術2002年刊)

といった具合で、形状についての説明はあっても、獅子口の発祥や意味については、なかなか明快な説明がなされていない。

しかし、建仁寺の獅子口軍団に、寝た子を起こされたような気分になり、ネットを入念に検索したところ、ようやく浄土真宗本願寺派のwebサイトで、納得のいく説明に出会うことができた。
長いけれど引用すると次の通りである。

獅子口は、室町から鎌倉時代頃にかけて使われるようになり、御所にある桧皮葺き(ひわだぶき)の重要建物の棟瓦として使われ、獅子口のことを御所棟鬼板と称したり、獅子口を「紫宸口」と記したりしていました。
また、獅子口は、現在では瓦葺きの棟の仕舞として使われていますが、本来は桧皮葺きや柿葺き(こけらぶき)などの屋根の棟重(おも)しとして造られ、装飾を兼ねた瓦として使われていました。その後、桧皮葺きに限らず、鬼瓦と同じように瓦葺き屋根にも獅子口が使われるようになっていきました。
獅子口の特徴は、「棟の重し」として発展してきたことから、まずその大きさにあります。単に瓦葺き屋根の仕舞として発展した鬼瓦が1枚の瓦から出来ているのに対し、重しとしての役割をもっていた獅子口は数枚の瓦が組み合わさって出来ています。



獅子口については、この他にもたくさん知りたいことがあるが、とりあえず大きな前進だった。
瓦をたくさん積み重ねた形をしているというのも、本来は「重し」だったということがわかって大納得。
同サイトによると、現在「平成大修復」が行われている本願寺御影堂の獅子口の重さは、大棟に載るいちばん大きなもので1つ3トンもあるという。

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「望闕楼」と名付けられた山門の棟を飾るのも、鬼瓦ではなく獅子口。本来の重しとしてではなく、装飾的な使われ方というのは見た目にも明らか

なお、建仁寺の後、本来の目的地であった六波羅蜜寺に着いて、本堂の屋根を眺めれば、降棟や稚児棟の端には鬼瓦が据えられていたが、大棟の端には、鬼瓦でもなく獅子口でもなく、通常は鬼瓦の上に付くはずの鳥衾(とりぶすま)だけが載っていた。
この屋根は寄棟造であるため、鬼瓦や獅子口では物理的にもデザイン的にもしっくりいかないということかもしれない。

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六波羅蜜寺の本堂 降棟、稚児棟は鬼瓦だが、大棟の隅は鳥衾だけ
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2008年11月20日

首里城 文化財保護法成立前、苦肉の策で守られた遺産

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首里城正殿

前回アップした法隆寺。7世紀の末に建立されたという金堂は、押しも押されもせぬ世界最古の木造建造物である。

だが、この金堂も一度焼失の危機に瀕している。

1949年(昭和24)1月26日、壁画の模写作業中に、電気座布団もしくは蛍光灯用の電熱器の過熱により火災が発生したのである。
幸いにもこのときは、戦前から戦争をはさんで続けられていた「昭和の大修理」の最中だった。堂内にあった仏像は場所を移されていて、上層も解体されていたため、必死の消火作業とあいまって被害は最小に食い止められた。

貴重な壁画が大ダメージを受けるなどの被害があったが、皮肉なことにこの火災を機に、戦争でスローダウンしていた「昭和の大修理」に勢いがつき、政府も十分な予算を計上するようになったという。
今われわれが法隆寺の荘厳な姿を拝むことができるのも、この火災が一役買っていると言えるかもしれない。

なお、同じくこの火災をきっかけに「文化財保護法」が制定されたというのも知る人ぞ知るのエピソードではあるが、このとき「文化財保護法」という真新しい法律が忽然と姿を現した、というわけではなかった。

実はわが国における「文化財保護」という発想の萌芽は、1871年(明治4)にさかのぼる。
この当時、明治維新後の排仏毀釈や神仏分離の荒波をかぶり、全国の社寺(とくに寺)は、建物は壊され、仏像などの宝物は売却され海外に流出するなど、荒れ放題だったという。
その状況があまりに悲惨であったため、この年、太政官から「古器旧物保存方」という布告が出され、所蔵する文化財の保全が呼びかけられるとともに、そのリストの提出が求められた。
(ちなみに、寺院も神社も手がける大工を「宮大工」というのは、排仏毀釈のおりに寺の仕事がなくなって以来の慣習だという。江戸時代には「堂宮大工」などと呼ばれていたが、このような事情から堂=寺院の字が外されたのだ)

ただし、「古器旧物」の名の通り、この太政官布告では器や物品だけが対象であり、建物は含まれていない。
以後、1880年(明治13)公布の「古社寺保存金制度」を経て、1897(明治30)に「古社寺保存法」が制定される。
この法律こそが、日本で最初の文化財保護に関する法律であり、また「文化財保護法」の前身でもあった。

しかしこの法律を以てしても、その名の通り対象は古社寺であって、伝統民家はもちろんのこと城郭すらも対象外であった。
今も全国各地に残る城の中にも、いったん旧藩主から民間に売却されたという履歴をもつものが少なくないのもそのためだし、天守閣や櫓、門なども維持のための資金難から、荒れ放題になったり壊されたりしている。

さて、前置きは長くなったが、そういう試練にさらされた城郭の1つに、沖縄県の首里城がある。
日本の他の城とは異なって中国風の外観をもつこの首里城は、琉球王朝の王城として設けられたものだ。
最初に営まれたのはいつのことなのか定かではないが、一説には13世紀末から14世紀にかけてと言われ、今知りうる限りでは1453年、1660年、1719年の少なくとも3度は焼失しているという。

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首里城正殿 正面の破風

明治維新の時点では1715年に再建されたものが存在していたが、維新後の琉球処分により王朝が廃止されたため、首里城は荒廃の一途をたどった。
古社寺保存法成立後も、その適用外ということでなす術もなく荒れるに任せていたのだが、内務省技師として全国の歴史的建築物の調査にあたっていた関野貞が、
日本で唯一無二の中国風城郭である首里城を何とか保護できないか
という思いに駆られたという。

関野は、当時この道の第一人者であり、平城宮趾を発見、法隆寺非再建論でも名を馳せたという人物であるが、個人の一存で法律を曲げるわけにはいかない。
そこで関野が打った手というのは、首里城の正殿の後ろに「沖縄神社」という神社を設け、首里城正殿はその沖縄の拝殿であるという位置づけにして、古社寺保存法の適用を受けるというものであった。

古社寺保存法は1929年(昭和4)、社寺所有建物以外の建物もその対象とする「国宝保存法」へと発展し、首里城もめでたく国宝に指定されることになるが、それを待つまでもなく荒廃を止め、修復の手を加え始めることができたがゆえに、第二次大戦時の沖縄戦までもちこたえることができた。

不幸にも首里城や付随する史蹟群は、沖縄戦による焼失や破壊、また、戦後、この地に琉球大学が設立されたことなどから、一部を残してほぼ姿を消してしまうことになる。

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守礼門

しかし、沖縄文化のシンボルとも言える首里城は沖縄の人々の心に生き続ける。
「首里城の復元なくして沖縄の戦後は終わらない」という熱い思いを受け、1958年(昭和33)にまずは守礼門が復元された。
これを皮切りに城郭区域の復元事業が開始され、1970〜1980年代に実施された琉球大学の移転事業の後、首里城正殿の復元にも着手。ついに1992年(平成4)11月に竣工となった。

長らく「不在」であった正殿の復元は困難を極めたというが、戦前に「沖縄神社拝殿」としての修復事業の際に残された資料や写真は、その大きな原動力になったという。

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戦前に国宝に指定されたが、沖縄戦で焼失した瑞泉門。1992年に復元

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首里城の正門にあたる歓会門。こちらも戦前に国宝に指定されたが沖縄戦で焼失。1974年に沖縄復帰記念事業で復元

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園比屋武御嶽石門 首里城跡は、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として世界遺産に登録されているが、あくまでも「跡」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。しかし、歓会門の手前にあるこの園比屋武御嶽石門は、復元されたものではありながら世界遺産に登録されている。非力にもその理由は調べきれなかったが、復元に旧石門に使われていた石が使用されているからではないかと推察する
posted by kenchikuondo at 20:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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